ハトマークプラザ

第十二回 近代国家への道―明治・大正の群像

明治維新以降、日本は凄まじい勢いで近代国家への階段を駆け上がり、欧米列強に追い付き、追い越そうとしました。首都・東京では政治、経済、学問、文化、芸術、技術等、さまざまな分野でさまざまな才能が開花しました。日本の近代化を力強く推進した群像を紹介します(ここで紹介した人物はほんの一部の人たちです)。

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鉄道の父・井上勝

 

新橋SL広場(港区新橋)。日本初の鉄道は「新橋〜横浜間」で開通。1972年(昭和47年)に鉄道100年を記念して蒸気機関車C11 292号が設置された。井上勝(1843〜1910年)は長州(現在の山口県)の藩士で、1863年(文久3年)に後に初代内閣総理大臣となった伊藤博文らとともに密かにイギリスに渡航しました。イギリスでは大学に通う傍ら、駅や鉄道を視察し、一度に多くの人や貨物を運べる鉄道の必要性を痛感したようです。1868年(明治元年)に帰国し、1872年(明治5年)に日本初の鉄道「新橋〜横浜間」を工事責任者として開通させました。その後、鉄道局長となり、「京都〜大津間」は初めて日本人だけの手で完成させました。生涯を鉄道に傾け続け、「鉄道の父」と呼ばれています。

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三菱創業者・岩崎彌太郎

 

旧岩崎邸庭園(台東区池之端)。1896年(明治29年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられました。現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟。岩崎彌太郎(1835〜1885年)は土佐(現在の高知県)で生まれました。三菱財閥の創業者で、明治の動乱期に活躍し、日本の実業家ではもっとも有名な人物の1人だといえるでしょう。幕末期は1歳年下の坂本龍馬とも交流があり、当時は経済官僚として奔走する彌太郎と自由な立場で政治改革を志向する竜馬では活動の内容は違ったけれど、常に広い世界を意識していた点では共通していました。1870年(明治3年)に3隻の汽船で九十九商会として海運事業を開業、これが三菱の出発点となり、1873年(明治6年)に「三菱」を名乗っています。

後藤新平と震災復興計画


明治通り。震災復興の道路建設では、後藤新平は東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張。明治通りも、この計画に基づいて整備された。後藤新平(1857〜1929年)は明治・大正・昭和初期に活躍した医師・官僚・政治家です。台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市(現・東京都)第7代市長等、さまざまな要職を歴任し、多大な功績を残しています。特に、1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、その後、内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案したことは最大級の評価を得ています。新平の描いた復興プランによって、現在の東京の骨格がつくられました。

夏目漱石と三四郎池

 

三四郎池(文京区本郷・東京大学本郷地区キャンパス)。漱石の長編小説『三四郎』の作中で、三四郎と美禰子が出会った東京大学の心字池(育徳園心字池)は、本作品の影響から「三四郎池」と呼ばれるようになった。夏目漱石(1867〜1916年)は、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪で『吾輩は猫である』『こゝろ』などの作品で広く知られています。江戸の牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)生まれですが、漱石が東京出身というのは意外と知られていないようです。夏目漱石生誕140周年記念事業の一環として、夏目漱石が141回目の誕生日を迎えた平成20年2月9日に、新宿区立の漱石公園(新宿区早稲田南町)がリニューアルオープンしています。

乃木希典と日露戦争


乃木神社(港区赤坂)。乃木夫妻の殉死に感激した国民はこぞって乃木邸を訪れる。夫妻の精神を永世に伝えるため、1919年(大正8年)に乃木神社創立の許可がくだった。乃木希典(のぎ・まれすけ)(1849〜1912年)は、1904年(明治37年)開戦の日露戦争では、東郷平八郎とともに英雄となり、「聖将」と呼ばれました。しかし、この戦争で、2人の子供、勝典、保典が戦死しています。1912年(大正元年)の明治天皇大葬の9月13日夜、妻の静子とともに殉死、自刃しました。享年62歳。墓所は港区青山霊園。

大久保利通と新政府


贈右大臣大久保公哀悼碑(千代田区紀尾井町)西郷隆盛の盟友で「維新の三傑」の1人であった大久保利通(1830〜1878年)は、1878年(明治11年)に紀尾井坂で暗殺されました。享年47歳でした。遭難の地は、現在のホテルニューオータニのすぐ向かいにある清水谷公園付近で、この地に哀悼碑が建てられています。大久保利通は維新後、明治政府の中心的存在となって、近代日本を方向付けました。たとえば現在に至るまでの日本の官僚機構は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われています。

板垣退助と自由民権運動


多摩川上流の青梅釜の淵公園(青梅市大柳町)の薮の中に、板垣退助の銅像がある。多摩川上流は「自由党の砦」と言われていた。板垣退助(1837〜1919年)は幕末、土佐藩(現在の高知県)の武士として、戊辰戦争では参謀として活躍しました。明治時代になると、自由民権運動の主導者として知られ、生存時は一般庶民から圧倒的な支持を受けていました。また没後も日本の民主政治の草分けとして人気が高く、太平洋戦争後、紙幣の肖像にも用いられました。

福沢諭吉と慶應義塾


慶応義塾発祥の地の碑(中央区明石町)。聖路加病院の敷地一帯には中津藩の中屋敷があり、中津藩士であった福沢諭吉が1858年に、ここで蘭学塾を開いた。1958年、義塾創立百年記念事業の1つとして「慶應義塾発祥の地記念碑」が建てられた。現在の1万円札の肖像で使用されている福沢諭吉(1835〜1901年)は、明治期以来「日本最高の啓蒙思想家」と称されています。主な著作は『西洋事情』『學問ノスヽメ』『文明論之概略』などで、慶応義塾大学の創始者としても知られています。中央区明石町の聖路加病院の南側には慶応義塾発祥の地の碑があります。

原敬と大正デモクラシー


東京駅丸の内口(千代田区丸の内)。原敬はここで暗殺された。ほぼ即死状態だった。原敬(1856〜1921年)は1918年(大正7年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われています。日本で初めての本格的な政党内閣を組織し、「大正デモクラシー」を象徴する政治家だといえます。ところが、1921年(大正10年)に東京駅乗車口(現在の丸の内口)で暗殺(刺殺)され、65年の生涯を終え、原内閣も無念の終わりとなりました。

芥川龍之介と城東地区

 

両国小学校(墨田区両国)にある芥川龍之介文学碑芥川龍之介(1892〜1927年)は昭和2年に自殺し、わずか35年の生涯でしたが、大正時代を代表する小説家といえ、現在でも多くの人が彼の小説を愛読しています。『芋粥』『藪の中』『地獄変』『歯車』など短編小説の名手。東京市京橋区生まれで、府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を経て第一高等学校(東京大学の前身)に入学。城東地区には、芥川ゆかりの地がいくつもあります。

渋沢栄一と史料館

渋沢栄一(1840〜1931年)は日本の近代経済社会の基礎を築き、生涯「道徳経済合一説」を唱え、実業界のみならず社会公共事業、国際交流の面でも指導的役割を果たしました。飛鳥山公園(北区西ヶ原)には渋沢史料館があり、彼の全生涯にわたる資料を収蔵、展示しています。また旧渋沢邸の一部で、国の重要文化財に指定された大正期の2つの建物、「晩香廬」と「青淵文庫」が庭園とともに当時のままの姿で残っています。

秋山好古・真之兄弟と『坂の上の雲』

 

司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公、秋山好古(1859〜1930年)・真之(1868〜1918年)兄弟は、明治13年から15年まで旧旗本佐久間正節屋敷に下宿していました。現在の千代田区五番町あたりです。日露戦争の勝利は、この2人の兄弟の存在をなくしては語ることができません

初代内閣総理大臣・伊藤博文

 

伊藤博文(1841〜1909年)は明治新政府では大久保利通の信頼を得て、頭角を現します。大久保の死後、内務卿を継ぎ、政府の中心的位置を確保。1882年(明治15年)に憲法調査のため渡欧し、1885年(明治18年)に初代内閣総理大臣に就任します。大日本帝国憲法の制定を指導。品川区西大井に墓があります。

岡倉天心と日本美術院

 

岡倉天心(1863〜1913年)は明治期に活躍した美術家です。父が貿易商で、幼い頃から英語に慣れていたため、東京開成所(現・東京大学)に入所し、同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となって、フェノロサの美術品収集を手伝いました。東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、日本美術院の創設者としても著名。台東区谷中に岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)があります。

井上馨と鹿鳴館

 

鹿鳴館とは、外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場で、当時の急激な西欧化を象徴する存在でした。これを推進したのが、外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨(1836〜1915年)でした。井上馨は長州藩(現在の山口県)出身で、伊藤博文の盟友でした。鹿鳴館は現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣の大和生命ビルの地に建てられました。

樋口一葉と本郷・下谷
 

樋口一葉(1872〜1896年)は東京生まれの歌人、小説家です。1892年(明治25年)に発表した『うもれ木』が出世作となり、その後、『大つごもり』『にごりえ』『たけくらべ』などの作品を残しました。肺結核のため貧困のうちに死去しました。文京区本郷、台東区下谷界隈には、一葉ゆかりの地がいくつもあります。

細菌学の父・北里柴三郎


北里柴三郎(1853〜1931年)はドイツに留学し、1886年(明治19年)にコッホに師事、1889年(明治22年)に世界初の破傷風菌培養に成功し、帰国後は伝染病研究所長を務め、1915年(大正4年)に北里研究所を設立しています。港区白金に学校法人北里研究所の白金キャンパスがあります。「日本の細菌学の父」と呼ばれています。

平塚らいてうと『青踏』


平塚らいてう(ひらつか・らいちょう)(1886〜1971年)は、東京府麹町区三番町(現在の千代田区三番町)で生まれました。1911年(明治44年)に文芸誌『青鞜』を創刊、以降、女性解放運動・婦人運動の指導者として活躍しました。

東郷平八郎と日本海海戦


東郷平八郎(1848〜1934年)は、日露戦争前の1903年(明治36年)に連合艦隊司令長官に就任。翌年の日露戦争では、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させました。千代田区三番町の私邸があったところは、東郷元帥記念公園になっています。

竹久夢二と大正ロマン

 

「大正ロマン」で言い表されるレトロでノスタルジックな趣。その象徴ともいえる画家が竹久夢二(1884〜1934年)です。17歳で上京、その後、1914年(大正3年)に日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店して夢二意匠による小物類を販売、東京名所の1つになりました。文京区弥生に美術館があります。

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